朝になってもカーテンを開ける気になれない。窓の向こうが明るくなっていることは分かっていても、布団から出ることさえ重く感じる。

だから、できない自分を見ると、余計に焦ってしまう。
本当なら簡単なことなのかもしれない。 着替えて、外に出て、少し歩けばいい。窓を開けるだけでもいいのかもしれない。
でも、その「少し」ができない。
そうなると、「これくらいのこともできない自分は、かなりまずいのではないか」と考えてしまい、休んでいるはずなのに、頭の中では自分にできていないことを数えている。
太陽を浴びられないことより、そのことを理由に自分を責め続けていることのほうが、つらさを深くしているのかもしれない。
「できること」が、できないほど疲れている
疲れているときほど、簡単な対策を見つけると安心します。
朝に光を浴びる。少し外に出る。生活リズムを整える。軽く体を動かす。
どれも特別なことではないからこそ、それができないときには苦しくなりますよね?
「こんな簡単なことなのに」と思ってしまうからなのですが、行動の難しさは、その行動そのものだけで決まるわけではないですし、心に余裕があるときには何でもないことが、余裕を失っているときには大きな負担になることもあるんです。
外に出るには、着替えなければならないし、顔を洗うことも、誰かに会うかもしれないことも、外の空気に触れることも、ひとつひとつが面倒になってくる。
「太陽を見る」という言葉だけなら簡単なのに、そこへたどり着くまでにいくつもの小さな動作があって躊躇してしまう。
そして、できない自分を見て「怠けている」と思ってしまうかもしれませんが、それはむしろ「これほど簡単なことまで負担に感じている」と気づくこと自体が、今の自分の状態を知る手がかりになるんです。
つらいときには、元気になるための方法を探すことさえ疲れ、調べれば調べるほど、「これをしたほうがいい」「あれもやったほうがいい」ということが増えていく。
そして、できなかったものが増えるたびに、自分の状態を責める材料も増えてしまう。
本当は休みたいのに、「休むだけでは何も変わらない」と思ってしまい。何かしなければいけない。でも、何かをする力が残っていない。
その二つの気持ちは、どちらも本音だと思います。
- 良くなりたいからこそ、できないことが苦しい
- 動けないほど疲れているからこそ、良くなるための行動さえ重い
この矛盾を無理に解消しなくてもいいんです。
「今は何もできないほど疲れている」と認めることは、諦めることとは少し違いますし、できていない自分をさらに動かそうとするのではなく、今の自分に残っている力を、それ以上削らないようにしたほうがいいでしょう。
太陽を浴びられない自分を、責めなくていい
「今日は外に出られなかった」と考えると、できなかったことがひとつ増えるのですが、「今日は外に出ることすら負担だった」と考えると、見えてくるものが少し変わってくるはず。
行動の失敗として見るのか、今の疲れを知らせるものとして見るのか。
同じ一日でも、自分に向ける言葉は変えられます。
カーテンを開けられない日があってもいい。太陽を浴びることを考えるだけで疲れる日があってもいい。
「何かしなければ」と思いながら横になっている自分を、さらに追い立てなくてもいい。
もちろん、休めばすべてが解決するわけではないですし、つらさが長く続いているなら、ひとりで抱え続けないほうがいい場合もあります。
それでも、今この瞬間に「正しいことができない自分」を責める必要はありません。
太陽を浴びることさえ難しいほど疲れているなら、まずはその疲れを疲れとして認識し、「何もできない」と責める代わりに、「今は何もできないほど疲れている」と言ってみてください。
それだけでも、自分を追い詰めるために使っていた言葉を、少しだけ休ませることができる。
元気になるために何かを始める前に、自分を責めることをやめる。
今は、それだけでもいい

